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『カポーティ』ジェラルド・クラーク
2015年01月24日(土)
Capote


 トルーマン・カポーティがタイムのライターのインタビューに答え、自分の正伝であることを承認したバイオグラフィー。
 正味680ページ、上下2段組み、定価も6000円と、現代の作家の伝記としては大変珍しい超大作である。

 著者が9年をかけた執筆中、1984年にカポーティが亡くなったため、自動的にこれがカポーティ伝の決定版となった。
 出版はカポーティの死後4年が経った1988年、日本語版が出たのは1999年と、翻訳にはさらに11年を要している。

 昨年から意識的に続けてきたぼくのカポーティ体験学習≠焉Aこれでいったん一段落だ。
 そこで、ぼくが何を考えながらここまでカポーティ作品を読み継いできたか、ざっと整理しておきたい。

 最初に読んだのは文学史上に残る傑作ノンフィクション・ノヴェル『冷血』(1966年)だった。
 映画『カポーティ』(2005年)の日本公開に合わせて出版された新訳版である。

 その映画がカポーティの取材、執筆活動を描いた『冷血』のインサイド・ストーリーであると知って、すぐにDVDをAmazonで購入した。
 レンタルで済ませなかったのは、何度か繰り返し見たかったためと、カポーティやペリー・スミスを演じた俳優のインタビューを収めた特典映像にも興味があったから。

 この映画の原作が、ここに取り上げたジェラルド・クラークによる評伝だった。
 当然のことながら、映画版では『冷血』に関する部分を抜粋、主演のフィリップ・シーモア・ホフマン独自の解釈によるアイデアも取り入れ、映像的効果を膨らませた仕上がりになっている。

 では、原作の伝記にはいったい、どのようなカポーティ像が描かれているのか。
 すぐにでも読みたかったが、とりあえず現物をAmazonから取り寄せておき、先に『冷血』以外のカポーティの代表作すべてに目を通すことにした。

 順番通りに記すと、最初が処女長篇『遠い声 遠い部屋』(1955年)。
 2冊目がデビュー作の短篇『ミリアム』を収録した『夜の樹』(1949年)。
 3冊目がカポーティの筆名をさらに高めた『ティファニーで朝食を』(1958年)。
 4冊目が長篇第2作『草の竪琴』(1951年)。
 5冊目が未完に終わった最後の長篇『叶えられた祈り』(1987年)。
 そして、最後の6冊目がカポーティの生前最後の単行本『カメレオンのための音楽』(1980年)である。

 小説を読めば、カポーティがどれだけ特異で優れた作家であったかは十分に理解できる。
 しかし、そのカポーティを当時のアメリカ社会がどのように受け止めたか、なぜ彼が「恐るべき子供=アンファン・テリブル」とまで呼ばれ、時代の寵児となったのか、それは本書のようなサブテキストを読まなければわからない。

 そういうぼくのような後世の読者が抱く疑問に答えられる副読本をつくるのに、クラークはカポーティの著作の何倍もの紙数を必要とした。
 カポーティがもてはやされた原因を明確に提示するには、カポーティの出自と幼年期を正確に記した上で、彼が作家として認められた1950年代当時のアメリカ社会、とりわけ文化的な背景と雰囲気を再現しなければならなかったからだ。

 何とも野心的、かつ気の遠くなるような作業である。
 本書の出来栄えには賛否両論あるだろうが、クラークの試みはある程度成功している、とぼくは思う。

 2歳で母親の不倫を目撃したという記憶を持ち、母親が愛人と出かけるときはホテルの一室に閉じ込められたカポーティが、思春期に同性愛に目覚め(というより無理矢理目覚めさせられ)、ニューオーリンズからニューヨークに出て行くと、たちまち周囲の人間を虜にする妖しい魅力を発揮。
 ニューヨーカー誌のコピーボーイ(当時の日本の新聞・出版社の坊や)だったころから作家修行を始め、のちにピューリッツァー賞を受賞する批評家ニュートン・アーヴィンと恋人同士になる。

 このあたりから有名無名を含めて様々な人物がカポーティの周辺に立ち現れ、そうした人間たちを輩出した当時のアメリカ社会をも、クラークは写実的でリアリティ溢れるタッチで再現してゆく。
 カポーティの人物像、カポーティの作品世界、そして現実のニューヨーク上流社会における現実を融合させ、文芸大作のごとき世界と時代の再現に成功した手腕は見事の一語。

 ぼくはこの評伝を読み進めながら、カポーティの『冷血』をはじめ、優れた文学作品を読んだときと同じような興奮と感動を覚えないではいられなかった。
 ひょっとしたら、ノンフィクションも小説と同等の意味と価値を持つ文学たり得るのではないかと思わせられた。

 もちろん、カポーティのことだから暴露ネタも満載。
 同時代の作家ゴア・ヴィダルやノーマン・メイラーとの確執に加え、マーロン・ブランドに同性愛遍歴を吐露させ、三島由紀夫に男娼を紹介したエピソードなど、思わずページを繰る手が止まるような仰天ものの逸話には事欠かない。

 つまり、このカポーティ伝は類い稀なエンターテインメントであり、価値の高い文学的サブテキストであり、ゴシップ好きの興味を十二分に満たす暴露本でもあるのだ。
 アメリカには『モハメド・アリ その生と時代』(1991年)、『ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡』(1998年)、『偽りのサイクル 堕ちた英雄ランス・アームストロング』(2014年)など、非常に優れた伝記作品が数多あるが、深みと読み応えがあるのみならず、カポーティの生きた時代とその雰囲気を再現した多面性と全体性まで兼ね備えていることにかけて、このカポーティ伝は頭一つ抜け出ている。

 もっとも、では、大変な労作である本書が、カポーティ作品にも拮抗する文学作品足り得ているかとなると、そう言い切るにはやはり躊躇してしまう。
 これはやはりジャーナリズムの所産であって、ノンフィクションでありながらも完璧な文学だった『冷血』とは、そこが決定的に違うのだ。

 ただし、クラークはその『冷血』でカポーティが創作した部分を暴いて、そのことをカポーティ自身に語らせている、ということも付記しておく。
 それを是とするか非とするかは、あなた自身が『冷血』とこの『カポーティ』を読んで判断していただきたい。

 ノンフィクションは文学たり得るか、その答えには本書を読んでもいまだに辿り着けない。

(発行:文藝春秋 翻訳:中野圭二 第1刷:1999年4月20日 2刷:2006年10月5日 定価:6000円=税別
 原書発行:1988年)